ジェネレーション・ダイナマイト

面白いと思ったことの備忘録(大したことはありませんが)

「0.8m」を導くセンスー仕事は判断によるアートである―

ものを作るときに最も頭を使うのが「レアケースの想定」です。
なかでも「その発生頻度の評価」は、周囲との論争のもとになります。
「そこまでしなくても」「いやでも万が一発生したら」のせめぎあい。
どんな製品を作っている所でもあると思います。

こういうときに頭をよぎる話があります。
宮城県の女川にある原子力発電所を設計した人の話です。

設計者の1人は、津波対策として、地域の津波の先例を平安時代まで遡るくらい調べ上げたそうです。
その他諸々検討を重ねた結果、最終的に「防潮堤の高さは14.8m必要」と想定しました。
周囲が「12.0mで充分では」と言う中で、たった1人「14.8m」を主張し続け、執念で実現させたとのことです。

この「14.8m」のうち「0.8m」が凄いところです。
実際に東日本大震災では13.0mの津波が襲来し、さらに1.0m地盤沈下したため、結果的に「0.8m差」で津波を免れたからです。
設計者のセンスと、周囲を説得した熱意に、驚くばかりです。
(実際のところ、過去の津波の先例でも、江戸時代前期の「8.0m」が最高だったとのことです。
 私なら「12.0mで充分」の側に立ってしまいそうです)

さて、この話を聞いて「神がかった凄い人がいたんだね」という良い話だけで終われないのが大人です。

大人の立場ではさらに

「最初の段階で気付けていて良かったね」
「実際に作れる時間があって良かったね」
「実際に作れるお金があって良かったね」

という感想が加わります。

この問題の大人の解き方は「残りの時間とお金との相談」しかありえません。
場合によっては先日の大雪に対する都心のインフラのように「切り捨てる(実際に起きたら諦める)」のも、一つの判断です。
この判断のセンスの重要性が、最近身にしみて実感できるようになりました。

さて、その「判断のセンス」の磨き方やいかに。
仕事というのは「判断によるアート」なのではないかと最近うすうす感じ始めています。

 

(参考文献)

Ocean Green

2016年の椎名林檎

リオ五輪の閉会式の演出は「そうきたか」という感じで凄かったですね。

www.youtube.com


演出を仕切ったのは椎名林檎だというのも驚きでした。

意外な人選だったかもしれませんが、その答えは、今年読んだ本の中にありました。

その本のタイトルは、宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書2016年)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

ロッキング・オン・ジャパン』など音楽雑誌の編集者だった著者のデビュー作で、宇多田ヒカルを中心に1998年デビュー組(宇多田・椎名林檎aiko浜崎あゆみ)に関する人間・音楽模様を軸にした評論で、椎名林檎にも一章を割いて論じられています。
たぶん私が今年買った本でナンバーワンになるのではないかと思える本です。

キーポイントになるのは2014年11月6日の「音楽ナタリー」のインタビュー。

長い孫引きになりますが引用します。

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同じレコード会社の同期である宇多田ヒカルの活動休止に触れ、

「(前略)確かに言えることは、ヒカルちゃんの不在によって私がどれだけ寂しい思いをしているかということです。もちろん、流行り廃りの世界にいることは重々わかっているけれど、基本的に保たなきゃいけないクオリティの基準値があって……」

―ポップ・ミュージックを真摯にクリエイトするうえで。

「そう、そのためには踏まえなきゃいけない工程がやっぱりあるんですよね。その工程を踏まえていないものがまん延してるなって感じるときに、やっぱりヒカルちゃんがいてくれたらいいなって思うことはよくありますよね」(前掲同書P131)

(中略)

「2020年の東京オリンピックが決まったとき、(中略)『だいじょぶなのか東京』と、不安を覚えたでしょう?開会式の演出の内容がおっかなくて仕方ないでしょう?(中略)こんなふうになったら困るなという、私たち国民全員共通のイメージってあるでしょ?『あちゃー』ってなったらヤだなって。(中略)
子供を持つ親として、私なんかにも動けることがあればしたいと思ってます。Jポップと呼ばれるものを作っていい立場にあるその視点から、絶対に回避せねばならない方向性はどういうものか、毎日考えてます」(前掲同書P144)

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明確に志願して立候補したのだということがわかります。

今年椎名林檎は表立った仕事を一つもしていないとのことで、これに全てを賭けていたのでしょう。

本書の表現を借りれば「日本の音楽業界/芸能界で幅をきかせているアイドル・グループやダンス・グループに占拠」されなくて心の底から良かったと思いました。

国立競技場やエンブレムの件で「こんな風になるんならもう返上しちまえよ」くらいに思っていた自分を反省します。
開会式もこんな感じだといいですね。

※音楽は椎名林檎ではなく中田ヤスタカだったんですね。

※今回の閉会式の演出内容についてはアニメ(ドラえもん)やゲーム(マリオ)、漫画(キャプテン翼)という切り口や、「ポケモンGO」や「シン・ゴジラ」との共通点を見出す人もいるようですが、そこまではお腹いっぱいということで……

「花神」―わたしの好きな司馬作品―

今日は司馬遼太郎没後20周年だそうです。
そんなこともあり、私が今まで読んだ中で最も好きな小説『花神』について書いてみたいと思いました。

花神』の舞台は幕末長州、主人公は村田蔵六大村益次郎)。

あらすじは以下の通り。

 長州にて、百姓として村医者の家に生まれる
緒方洪庵の弟子として大坂・適塾で医学を学ぶ
→故郷長州に帰り、家業を継いで村医者となる
オランダ語が翻訳できることから適塾の縁で伊予・宇和島藩に招聘される
→兵法や建築の本を訳し、軍艦や砲台、はては気球まで作る
→評判から幕府に乞われて学問所の教授になり多くの門弟を育てる
→やがて故郷の長州藩に乞われ、蘭学を講義する
→兵法・軍略に詳しかったことから、長州藩の討幕軍司令官となる
上野戦争を指揮し「江戸を火災にしない」目標を達成しつつ完勝する
維新後、帝国日本陸軍の礎を築くも、恨みを買って襲われ、その傷がもとで亡くなる

花神』とは「花咲か爺さん」という意味だそうです。本文より引用。

「蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及するしごとであり、
 もし維新というものが正義であるとすれば(蔵六はそうおもっていた)津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる役目であった。
 中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神のしごとを背負った」

幕末長州を題材に時を同じくして執筆された『世に棲む日日』(吉田松陰高杉晋作が主人公)とは姉妹編と言われています。
『世に棲む日日』が文系からみた幕末史で『花神』は理系からみた幕末史と評する人もいます。

本文中でも語られています。

「この小説は大変革期というか、革命期というか、そういう時期に登場する『技術』とはどういう意味があるかということが、主題のようなものである。
 大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死を遂げる。日本では吉田松陰のようなものであろう。
 ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。
 三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい」

私が興味深く思ったのは、

・理工系の視点からみた、各藩の軍事技術競争としての幕末史
・幕末の日本列島における、科学の受容史と知識人の裾野の広さ

という従来あまり語られない点が詳細に記述されている点です。

そして私が感情移入した点は、

・地方で低い身分に生まれた者が、学問と技術力で立身出世していくところ
シーボルトの娘イネとの恋愛

です。

これ以降は、拙文よりもきちんとした評論があるので、そちらから共感した点を引用します。

「プロの技術者は思いっきり個性的でよく、偏屈でよく、政治的人望を配慮する必要はないから、人の鼻をあかす画期的な仕事を上げてみろと司馬遼太郎は訴えているのだ。
 日本の製造業の現場で働いている技術者は、往復の通勤電車の中で『花神』を楽しく読めるだろう。村田蔵六の中に自分を見出して感情移入する者が多いに違いない。
 合理主義だけを人格の全てとする個性的なエンジニアが、時の偶然で革命を指導する明治維新の物語。
 無名であり、処世も疎く、誤解も多いが、卓越した技術と明敏な頭脳を持ち、必要な仕事を誰よりも素早く完璧に仕上げ置く有能者。
 村田蔵六が軍事司令官として作戦指導しなければ、四境を包囲された長州が幕府の 大軍を突破することはできず、戊辰戦争を俊敏かつ効率よく勝利させることはできなかった。
 百姓同然の村医者。
 村田蔵六の物語は、生涯が詳述された長編『花神』を読んでもなお不思議であり、明治維新の奇跡を痛感させられる」

http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/hero/choshu_2.html

この本に出会ったのは就職してSEになってからでした。
文系の大学院卒で理系の職業になってしまった当時の私にとっては大いに自身を奮い立たせる材料でした。
私がどんな人間かと訊かれれば、この作品の主人公のような人間と答えたいです。

余談ながら、この作品は1977年のNHK大河ドラマでした。
しかしながら、当時はビデオテープが高価で他番組に使いまわしていたという事情があったそうで、総集編以外の映像は殆ど消去され、当時の視聴者が録画した映像が残っていないか探しているとのことです。
また、主演だった中村梅之助さんの訃報を伝えるニュースでも一切触れられず。
冷遇に感じられるのは気のせいでしょうか。

ただ、この作品の主人公が亡くなったのと同じ病院で司馬遼太郎も亡くなったことを今回知りました(国立大阪病院)。
奇縁というべきほかありません。

竜馬がゆく』『坂の上の雲』『燃えよ剣』『国盗り物語』などなど、もっと他に代表作がある中で、この作品をあげるのは珍しいと思います。
そもそも司馬作品を読む人という時点で今の時代レアかもしれません。
かつては大人の男性が嗜むべき小説は「一平二太郎」(藤沢周平池波正太郎司馬遼太郎)と言われた時代もあるそうですが……

私が考える司馬作品の魅力は大きく以下の2つです。

①膨大な取材に基づく情報量の多さ
 「司馬遼太郎が新作を書き始めると、神保町の古書店街からその分野の本をすべて買い占める」といわれたそうです。
 東大阪市にある自宅を改築した司馬遼太郎記念館は、地下1階から3階まで吹き抜けがすべて本棚になっています。
 作品でも登場人物の知り合いのそのまた知り合いがどんな人物であったかまで克明に調べて書いてあるくらいです。
 それが人物像や、舞台となった時代・地域の描写に奥行きをもたらしていることは間違いありません。

②文章のリズム
 読んでいて心地よい文体。

 目で追っても、声に出して読んでもきっと気持ちいい音楽のような文章。

 音楽のような文章、といえば現役の作家では村上春樹、最近の作家では山内マリコをあげたい私ですが、何回読んでも安心して物語に入っていけるという点では、司馬遼太郎をおいて他にはいないと思います。

私もさほどヘビーなファンではありませんので、あまり語れる部分は実はないのですが、没後20周年という節目に振り返ってみました。

桜の季節に菊は満開するか

平成28年の大相撲初場所は、大関琴奨菊が初優勝。

日本人力士の優勝は平成24年夏場所旭天鵬以来3年8カ月ぶり、

日本出身力士の優勝は平成18年初場所栃東以来10年ぶりとのこと。

次の春場所も優勝して2連覇すると横綱昇進となります。

 

現実をみると厳しいとは思いますが……

日本人の横綱も三代目若乃花以来17年出ていなかったのには

改めて驚きです。

魁皇なんて5回も優勝しながら横綱にあがれませんでしたし。

 

かつて「同い年で横綱になるのは誰か」と考えていた時期がありました。

まさか白鵬(=早生まれなので同学年)だとは想像もしていませんでした。

(日本とモンゴルとでは学年の分け方が異なるかもしれませんが)

ただ、琴奨菊も同年生まれ(=早生まれなので学年は1つ上)なので、

同い年みたいなものです。

同世代の活躍は刺激になるので、頑張ってほしいです。

 

「菊の季節に桜が満開」

競馬の菊花賞サクラスターオーという馬が制した際の実況だそうです。

琴奨菊春場所で2連覇して横綱昇進を決めれば、逆に

「桜の季節に菊が満開」

となるでしょうか?

 

あるいは横綱昇進となれば、先代の師匠である横綱琴櫻四股名

継承するという話も出てくるかもしれません。

その場合は「桜の季節に桜」という当たり前の結果になりますがー